その日は珍しい、朝雪が降っていた。
今年初めての雪で、それも朝からとは珍しい。
店の庭も銀色に染まって、時折差し込む光を乱反射していた。
女郎が逃げ出さないように二重に施された雪見障子から、眺めていた。
庭に咲く寒椿に、白い雪が寄り添っている。
その時、障子を三度叩く音がして、
『入ってえぇかぁ』という聞きなれた声が返ってきた。
「へぇ、どうぞお入りなさいな」
案の定、障子を開けて入ってきたのは青蓮姐さんだった。
他の人と間違えられたくないのか、何か自分で決めた決まり事があるのか、
青蓮姐さんの障子を叩く音はいつも、三回だ。
「姐さん、今日はいっとう冷え込みますなぁ」
「初雪が朝雪とは、たまには神さんも風流なことしてくれはるもんやなぁ」
「ほんに。丁度庭を眺めてたところですよって」
私は庭の椿の雪が今にも落ちそうで、それにばかり心を奪われていた。
「じゃあちょっとは学のある歌蓮に問題や」
庭ばかり見ている私をつまらないと思ったのか、青蓮姐さんが問題を言い出した。
学が少しはあるとは言え、もう何年も勉強していない私に
解るものなんか少ないのを姐さんも知っているのに。
仕方なく雪見障子を閉じて、青蓮姐さんの隣へ座る。
「なんですのん?難しいのは勘弁しておくれやす」
「じゃぁ…、『香炉峰の雪を見るのにのは?』」
「…たしか、御簾をあげるのがえぇんどしたな」
「なんや、やっぱり知ってたんかぁ。あんたは答えてしまうからつまらんわぁ」
「でも答えなかったら拗ねちゃうんとちゃいます?」
図星だったらしく、しばしの沈黙が続いて、青蓮姐さんの表情が豹変する。
「今日はな、初物尽くしやろう」
「へ、へぇ、雪も、朝雪も、今年初めてどすけど…」
さっきまでの表情とあまりに違うため、私もつい身構えてしまう。
「そんならな、今年初めてのこと、もう一個重ねてみぃひいんか?」
青蓮姐さんは悪戯な顔をして、椿を見守る私を覗き込む。
「…姐さんがそういう顔するときは、ええことなんかひとつもあらしまへん」
「けど、今日は違うで。今年一番の雪見風呂せぇへんか?」
結局青蓮姐さんの上手い口調に乗せられて、凍るような中風呂桶につかる。
どうやら世話役の女の子が、わざわざ朝から湯を入れ替えてくれたらしく
普段の年功序列の風呂とは違って、湯は綺麗で透き通っており気持ちよかった。
まだ芸妓になれない世話役のセイが焚き火を炊いて湯加減を調節してくれる。
「どうやぁ、今年一番の雪見風呂は?」
「気持ちえぇどす、姐さんは?」
「もちろん一緒や、椿や山茶花に積もった白が、風流やなぁ…」
「えぇ、ほんに…」
「セイ、こんなもんでえぇよって、あんたもさむいやろ、一緒に入るか?」
セイは寒さ真っ赤になった手を必死に振って、
『見つかったら女将さんにどやされますから』と
奥へ引っ込んでいってしまった。
まぁ、そりゃぁそうだろう。
まだ床の取れないあの子達にとって、
一緒に入浴するだけでもさぼっていることになってしまうのだ。
昔、私自身も世話役だった頃を思い出して、二度と繰り返したくないと身震いした。
青蓮姐さんが貧民街で拾ってくれなかったから、今頃どうなってたんだろう。
吐き出した息が白くなって、消えて、そしてまた新しい白い靄が漂う。
嗚呼、冬になったんだなぁと痛感して、深度の深くなった空を見上げた。
「ところで歌蓮、噂で聞いたんやけどなぁ、身請けの話、来てるらしいやないの」
手ぬぐいで空気を閉じめて、ぼこっと湯で遊んでいた青蓮姐さんが突然切り出す。
むしろ、この話がしたくて雪見風呂なんかに誘ったのだろう。
今まで風呂に誘われたことなんか殆どなかったのだから。
「へ、へぇ、有難い事に頂くには頂いたやけど…まだ決まらんのです」
私はまだ虚空を見つめている。
相手に不具合を見つけるほうが難しく、むしろ私が見劣りしてしまうほどだ。
「相手は商家の若旦那、格好ええ見た目で年もあんたと近いゆうし、
決して悪い話とちゃうと思うんやけどなぁ…」
私は少しだけ黙って俯き、肩深くまで湯につかる。
口まで湯につけて、ぽこぽこと音を出してやる。
でも、なんだか釈然としない気持ちだけは晴れなかった。
青蓮姐さんが湯船から遠くの落ちそうな椿を見つめながら、私に言った。
「身請けは、うちら女郎にとっては一生の『決め事』や。
身請けされて幸せになった女郎も、身を投げて死んだ女郎もおったわ。
身請けっちゅうんは大金が動く。それに店の看板も相手の顔も立てるんや。
もちろん下手なことはできひん。
だからな、決めたら最後まで、死ぬまでやりとおさなあかん。
それが仮初めの嘘であっても、一生愛してると突き通さまあかん。
女郎の定めで、それが一生やからな。簡単に、決めたらあかん」
青蓮姐さんは視線を一切動かさず、
息継ぎもしてないんじゃないかと思うくらいのスピードで言った。
私も、椿に視線を移す。
たくさんの白い結晶にまとわれて、氷の華のようだった。
私もいっそ心ごと凍ってしまえたら、と、密かに思った。
「昔姐さんが話してくれたこと、あったやないですか?」
「"真の恋"、っちゅう話か?」
「へぇ、その話どす」
青蓮姐さんは風呂桶の外からキセルを取り出して、ふかし始める。
「身請けはなぁ、"真の恋"やない。
でも幸せなことに、身請けした相手と"真の恋"になった女郎も居ったなぁ。
けど、殆どの女郎が、相手のことを好いて、一緒になるんと違うんや」
ふー、と白い煙が景色と同化する。
真っ白い青蓮姐さんの肌、雪と空の色、キセルの煙は真っ白なのに、
キセルだけが美しい飴色になった木材で映える。
「あんたは、"真の恋"が、したいんか?」
青蓮姐さんに聞かれて、私は答えられない。
「解らへんのどす、"真の恋"のことも、
自分の身請け話のことも、まるで他人事のようで。
何一つ体の芯のほうへ入ってけぇへんのどす」
思いつめた顔で、私が悲痛な声を上げると、
それに反応したかのように視線の先の椿が華ごと、ごろり、と落ちた。
「さ、ここで長話してもしょうもない話や。とっととあがろか」
キセル盆に火を消して、青蓮姐さんが湯船から立ち上がる。
あられもないその姿を、普通なら目をそらすのが常識なのだろうが
私は、その肌に美しさに見入ってしまった。
隠すところのないくらいところまで。
青く紫がかった大きな痣が、全身に広がっていた。
一部分は、皮膚の下で出血を起こしているらしく緋色に染まっていた。
この大量の痣の所為で、私を風呂に誘わなかったのかもしれない。
「ん?あ、びっくりさせたやろか」
バツの悪そうに、乱れた髪を掻き揚げて、私から視線をそらす。
それでも、私はその姿から視線を話せられなかった。
「そんなことありまへん!き、きれいどす…」
少し驚いた顔をした青蓮姐さんは優しい笑顔になった。
「そうかぁ…ほんに、おおきになぁ、歌蓮」
心から美しいと、この世にこんな美しいものがあるのかと、俄かには信じられなかったのだ。
青から紫、時折緋色の混じる大きな痣は、まるで体中に咲く牡丹の花の様に見えた。
ずっと見ていると、青蓮姐さんは牡丹の花を緋色の襦袢で隠してしまう。
「ほら、あんたも早く上がんな。昼見世あるんだろう?
風邪でも引こうものなら、女将の鬼の形相がすっ飛んでくるよ」
冗談めかした青蓮姐さんの台詞にくすりと笑って、私も湯船から出る。
体中から湯気が出るほど寒い。
急いで着物を着て、髪を乾かさなくては、髪結いに間に合わない。
「湯冷めせんように気ぃつけやぁ、風邪ひぃたらかなんからなぁ」
「へぇ、青蓮姐さん」
ぱたぱたと廊下を駆けていく二人の足音が止むと、店は再び静寂に包まれた。