仮呼-カコ-の、今の眼からみた世界
カメラとか文章とか音楽とかやってる暇人です。マミヤのカメラを愛してやまない一般人。
唯一無二になりたくて、今日もそらの"あお"に憧れています。
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青蓮、歌蓮 [四]
生成りの光が満ちる座敷に、歌蓮と若い男が床についている。
それは俗に言う情事というもので、床と歌蓮の髪は乱れていた。
「歌蓮、色好い返事はまだもらえへんのか?」
男が、歌蓮の首筋でそっと囁いた。
歌蓮の瞳が、一瞬だけ翳る。
「もう少しだけ、待ってもらわれへんやろか」
「俺じゃぁ、お前を幸せには出来ひんのか?」
「ちがうんどす、それはちがうんどす」
歌蓮は必死に否定をするけれど、男の眼は真剣で、そして悲しそうだった。
「うちがまだ、未熟なだけなんどす。
 芸妓にもなってまだ幾日も経っとらへんし、そんなうちでえぇんやろかと」
「それでも、俺は歌蓮がえぇんや。他の女は要らん。
 何なら念書や誓いを立てたってえぇ。それぐらい、歌蓮に惚れとるんや」
歌蓮は優しく微笑みながら、呟く。
「おおきに、若旦那はん。
 でも、一生のことやさかい、もうちょっと待っておくれやす」
これ以上は言っても無駄だと悟ったのか、男は口を噤む。
「解った。色好い返事を、待ってるわ」
「ほんに、おおきに。うちも、若旦那はんは大切で仕方ないんどすえ」
それでも、答えは出ないまま、座敷には陽の光が差し込み始めた。
青蓮、歌蓮 [三]
「青蓮姐さん、青蓮姐さん」
青蓮姐さんの障子を叩きながら、名を呼ぶ。
「なんやぁ、歌蓮かぁ。あんたからこっち来るなんて、珍しいこともあるもんやぁ。
 えぇよぉ、入り」
「へぇ、失礼します」
障子を開けると、支度前の青蓮姐さんが窓を見ながらキセルをふかしていた。
「おはよぉさん、えらいはよから」
「すんまへん姐さん。お疲れどしたか?」
「いんや、昨日の客は上客やったさかい、大丈夫や」
昨日の青蓮姐さんの客は、流れ者の"鏡也"とかいう男だったはずだ。
どこで手に入れた金なのか、やたらと羽振りがいいのが目立つ所為で
店の中でもよく話題になっていた。
女郎の中でも青蓮姐さんしか指名せず、しかも夜通しで買う。
姐さんも姐さんでまんざらでもないらしく、
いつもと違う色香を漂わせて座敷へ向かう。
その背中を見送るたび、
『もしかして青蓮姐さんの"真の恋"は、この人なんちゃうやろか』と
心の奥底で思っていた。
「昨日は鏡也はんどしたなぁ」
「そうやぁ、あん御人はえぇ人やさかい、次の日が楽で助かるわぁ」
キセル盆に火を落として、最後の煙を噴出す。
一筋の白い糸が緋天井を目指して、消えていく。
触れてはならないものの様な気がしてならないが、意を決して聞いてみる。
「青蓮姐さん。前に私に"真の恋"の話、してくれはりましたなぁ」
「あぁ、したなぁ」
「…もしかして、姉さんのその相手、鏡也はんと違うやろか?」
青蓮姐さんの動作が止まる。
二人の間に流れる時間も止まる。
「いつも思ぉとったんどす。
 姐さんが鏡也はんと座敷へ行くとき、いつもと違う気がしてたんどす。
 なんかこう、うまく説明はできまへんけど…」
青蓮姐さんは動かない。
視線はキセル盆で燻る最後の残り火を見つめている。
「あの、姐さん…?」
残り火が消えて小さな音を立てた時、小さなため息と共に口を開いた。
「そうやぁ。あん御人があたしの想い人や」
私を見る目の奥で、燃える紅い炎が見える。
「あん御人が居るから、あたしはあたしで居られるんや」
「どういう…ことどす…?」
瞳の炎が蒼く変わって、悲しそうな眼で私を見る。
「あたしんところの常連客なぁ、殴るわ蹴るわでもう大変なんや。
 あんたも朝風呂入った時に見たやろう、全身の痣」
「…へ、へぇ」
「痛とうて痛とうて叶わんけどなぁ、
 あの痣をあん御人だけは『綺麗』や言うてくれたんや。
 『綺麗に咲く牡丹や』言うて、愛してくれたんや」
蒼い炎が瞳の奥で大きくなっていく。
「あたしを『もの』やのうて、『人』として扱こうてくれたんや。
 それが嬉しぃてなぁ、もう、あたしの下手惚れや」
自分自身に呆れた顔で青蓮姐さんが言う。
「で、でも鏡也はんも、きっと同じように好いてくれとうと思うんどす。
 指名も、いつも姐さんしかせぇへんし」
「そやなぁ、そうかもしれへんなぁ」
「じゃぁ…」
深いため息をついて、もう一度キセルに火をつけた。
緋天井へ向かう煙がたゆたう。
「でもなぁ、あたしからは言われへんのんや。
 『身請けしてぇ』て、言われへんのんや」
「なんで…!?」
「…怖いやろぉ。これで、終わってしもうたらどうしようって。
 もう二度と会えんくなるかも知れんのやったら、
 このままでええんやって。そう、言い聞かせる事にしたんや」
「青蓮姐さん…」
「あんた、身請け話の返事、まだなんやろう?
 どうするにも、はよぉしぃや。
 あんまり客を待たすようなもんやない」
「…へぇ、青蓮姐さん」
「あたしはなぁ、あんたに幸せになってもらいたいんや。
 ちぃこい頃から見てるさかいなぁ、もう自分の妹か娘のようなんや」
「おおきに、姐さん。あたしも、姐さんに幸せになってほしいんどす。
 姐さんが貧民街で拾うてくれへんかったら、
 今頃死んでたかもしれんのどすから」
「そんなこともあったなぁ…ほんに、綺麗になって。
 もうべんぴん過ぎて妬いてしまいそうなくらいや」
優しく笑った青蓮姐さんにつられて、私も笑った。
「だから、よぉ考え。
 伸ばせばえぇってもんではないんは、知ってるやろ?」
「へぇ…だから、迷とるんです」
「大丈夫や、もしどうにもならんくなったら、あたしが助けたる」
キセルをふかす青蓮姐さんがとても頼もしく、そして強く見えた。
「おおきに、姐さん。…では、失礼します」
おじぎをして座敷を出る。
まだ結論は出ない。けれど、出さなければいけない。
女郎として生きていく運命ならば、通らなくてはならない道だ。
裾を裁いて、廊下を歩いていく。
もう、時間がないのだから、考えなくてはならない。
青蓮、歌蓮 [弐]
その日は珍しい、朝雪が降っていた。
今年初めての雪で、それも朝からとは珍しい。
店の庭も銀色に染まって、時折差し込む光を乱反射していた。
女郎が逃げ出さないように二重に施された雪見障子から、眺めていた。
庭に咲く寒椿に、白い雪が寄り添っている。

その時、障子を三度叩く音がして、
『入ってえぇかぁ』という聞きなれた声が返ってきた。
「へぇ、どうぞお入りなさいな」
案の定、障子を開けて入ってきたのは青蓮姐さんだった。
他の人と間違えられたくないのか、何か自分で決めた決まり事があるのか、
青蓮姐さんの障子を叩く音はいつも、三回だ。
「姐さん、今日はいっとう冷え込みますなぁ」
「初雪が朝雪とは、たまには神さんも風流なことしてくれはるもんやなぁ」
「ほんに。丁度庭を眺めてたところですよって」
私は庭の椿の雪が今にも落ちそうで、それにばかり心を奪われていた。
「じゃあちょっとは学のある歌蓮に問題や」
庭ばかり見ている私をつまらないと思ったのか、青蓮姐さんが問題を言い出した。
学が少しはあるとは言え、もう何年も勉強していない私に
解るものなんか少ないのを姐さんも知っているのに。
仕方なく雪見障子を閉じて、青蓮姐さんの隣へ座る。
「なんですのん?難しいのは勘弁しておくれやす」
「じゃぁ…、『香炉峰の雪を見るのにのは?』」
「…たしか、御簾をあげるのがえぇんどしたな」
「なんや、やっぱり知ってたんかぁ。あんたは答えてしまうからつまらんわぁ」
「でも答えなかったら拗ねちゃうんとちゃいます?」
図星だったらしく、しばしの沈黙が続いて、青蓮姐さんの表情が豹変する。
「今日はな、初物尽くしやろう」
「へ、へぇ、雪も、朝雪も、今年初めてどすけど…」
さっきまでの表情とあまりに違うため、私もつい身構えてしまう。
「そんならな、今年初めてのこと、もう一個重ねてみぃひいんか?」
青蓮姐さんは悪戯な顔をして、椿を見守る私を覗き込む。
「…姐さんがそういう顔するときは、ええことなんかひとつもあらしまへん」
「けど、今日は違うで。今年一番の雪見風呂せぇへんか?」

結局青蓮姐さんの上手い口調に乗せられて、凍るような中風呂桶につかる。
どうやら世話役の女の子が、わざわざ朝から湯を入れ替えてくれたらしく
普段の年功序列の風呂とは違って、湯は綺麗で透き通っており気持ちよかった。
まだ芸妓になれない世話役のセイが焚き火を炊いて湯加減を調節してくれる。
「どうやぁ、今年一番の雪見風呂は?」
「気持ちえぇどす、姐さんは?」
「もちろん一緒や、椿や山茶花に積もった白が、風流やなぁ…」
「えぇ、ほんに…」
「セイ、こんなもんでえぇよって、あんたもさむいやろ、一緒に入るか?」
セイは寒さ真っ赤になった手を必死に振って、
『見つかったら女将さんにどやされますから』と
奥へ引っ込んでいってしまった。
まぁ、そりゃぁそうだろう。
まだ床の取れないあの子達にとって、
一緒に入浴するだけでもさぼっていることになってしまうのだ。
昔、私自身も世話役だった頃を思い出して、二度と繰り返したくないと身震いした。
青蓮姐さんが貧民街で拾ってくれなかったから、今頃どうなってたんだろう。

吐き出した息が白くなって、消えて、そしてまた新しい白い靄が漂う。
嗚呼、冬になったんだなぁと痛感して、深度の深くなった空を見上げた。
「ところで歌蓮、噂で聞いたんやけどなぁ、身請けの話、来てるらしいやないの」
手ぬぐいで空気を閉じめて、ぼこっと湯で遊んでいた青蓮姐さんが突然切り出す。
むしろ、この話がしたくて雪見風呂なんかに誘ったのだろう。
今まで風呂に誘われたことなんか殆どなかったのだから。
「へ、へぇ、有難い事に頂くには頂いたやけど…まだ決まらんのです」
私はまだ虚空を見つめている。
相手に不具合を見つけるほうが難しく、むしろ私が見劣りしてしまうほどだ。
「相手は商家の若旦那、格好ええ見た目で年もあんたと近いゆうし、
 決して悪い話とちゃうと思うんやけどなぁ…」
私は少しだけ黙って俯き、肩深くまで湯につかる。
口まで湯につけて、ぽこぽこと音を出してやる。
でも、なんだか釈然としない気持ちだけは晴れなかった。
青蓮姐さんが湯船から遠くの落ちそうな椿を見つめながら、私に言った。
「身請けは、うちら女郎にとっては一生の『決め事』や。
 身請けされて幸せになった女郎も、身を投げて死んだ女郎もおったわ。
 身請けっちゅうんは大金が動く。それに店の看板も相手の顔も立てるんや。
 もちろん下手なことはできひん。
 だからな、決めたら最後まで、死ぬまでやりとおさなあかん。
 それが仮初めの嘘であっても、一生愛してると突き通さまあかん。
 女郎の定めで、それが一生やからな。簡単に、決めたらあかん」
青蓮姐さんは視線を一切動かさず、
息継ぎもしてないんじゃないかと思うくらいのスピードで言った。
私も、椿に視線を移す。
たくさんの白い結晶にまとわれて、氷の華のようだった。
私もいっそ心ごと凍ってしまえたら、と、密かに思った。
「昔姐さんが話してくれたこと、あったやないですか?」
「"真の恋"、っちゅう話か?」
「へぇ、その話どす」
青蓮姐さんは風呂桶の外からキセルを取り出して、ふかし始める。
「身請けはなぁ、"真の恋"やない。
 でも幸せなことに、身請けした相手と"真の恋"になった女郎も居ったなぁ。
 けど、殆どの女郎が、相手のことを好いて、一緒になるんと違うんや」
ふー、と白い煙が景色と同化する。
真っ白い青蓮姐さんの肌、雪と空の色、キセルの煙は真っ白なのに、
キセルだけが美しい飴色になった木材で映える。
「あんたは、"真の恋"が、したいんか?」
青蓮姐さんに聞かれて、私は答えられない。
「解らへんのどす、"真の恋"のことも、
 自分の身請け話のことも、まるで他人事のようで。
 何一つ体の芯のほうへ入ってけぇへんのどす」
思いつめた顔で、私が悲痛な声を上げると、
それに反応したかのように視線の先の椿が華ごと、ごろり、と落ちた。

「さ、ここで長話してもしょうもない話や。とっととあがろか」
キセル盆に火を消して、青蓮姐さんが湯船から立ち上がる。
あられもないその姿を、普通なら目をそらすのが常識なのだろうが
私は、その肌に美しさに見入ってしまった。
隠すところのないくらいところまで。
青く紫がかった大きな痣が、全身に広がっていた。
一部分は、皮膚の下で出血を起こしているらしく緋色に染まっていた。
この大量の痣の所為で、私を風呂に誘わなかったのかもしれない。
「ん?あ、びっくりさせたやろか」
バツの悪そうに、乱れた髪を掻き揚げて、私から視線をそらす。
それでも、私はその姿から視線を話せられなかった。
「そんなことありまへん!き、きれいどす…」
少し驚いた顔をした青蓮姐さんは優しい笑顔になった。
「そうかぁ…ほんに、おおきになぁ、歌蓮」
心から美しいと、この世にこんな美しいものがあるのかと、俄かには信じられなかったのだ。
青から紫、時折緋色の混じる大きな痣は、まるで体中に咲く牡丹の花の様に見えた。
ずっと見ていると、青蓮姐さんは牡丹の花を緋色の襦袢で隠してしまう。
「ほら、あんたも早く上がんな。昼見世あるんだろう?
 風邪でも引こうものなら、女将の鬼の形相がすっ飛んでくるよ」
冗談めかした青蓮姐さんの台詞にくすりと笑って、私も湯船から出る。
体中から湯気が出るほど寒い。
急いで着物を着て、髪を乾かさなくては、髪結いに間に合わない。
「湯冷めせんように気ぃつけやぁ、風邪ひぃたらかなんからなぁ」
「へぇ、青蓮姐さん」
ぱたぱたと廊下を駆けていく二人の足音が止むと、店は再び静寂に包まれた。
青蓮、歌蓮
「歌蓮なぁ、あんたはべっぴんやなぁ…」
そういって青黒の長い乱れ髪を掻き揚げて、青蓮姐さんは言う。
「あんたはなぁ、きっとえぇ芸妓になれる。
あたしなんかより、一等べっぴんやからなぁ。
 唄も踊りも上手に出来る、きっとえぇお客はんがついてくれはるえ」
「おおきに、青蓮姐さん」
「たくさんの人と夜を過ごすんはえぇ、それがうちらの仕事やさかいなぁ。
 でもなぁ、"真の恋"だけはしたらあきまへんえ」
「"真の恋"…って、何どす?」
「もう好いて好いて仕方のうなってしまってな、走ってしまうことや。
 あたしらのこっぽりじゃ、上手になんか走られへん。
 好いてる人に置いてかれて、鼻緒も切れてしまうんや。
 やからなぁ、歌蓮…」
「…ん?」
「本当に好いた人はなぁ、忍ぶんやでぇ。
 それは一生や、命が尽きても地獄へ行っても、忍ぶんや。
 忍んでさえいれば、それは恋しててもお天道さんが許してくれはる。
 だからなぁ、歌蓮、あんたが一人前になっても、よぉ考えるんやでぇ」
「…はい、青蓮姐さん」
そう青蓮姐さんはキセルをふかして、丸い格子窓から雪を眺めた。
遠い目をしていたその姿が、客に見せられた春画の様で、美しかった。

ある日、ひどく酔った青蓮姐さんを抱えて、床をのべて寝かせる。
綺麗な蒼黒の長い髪は乱れきって一本だけ簪が残り、
どこかで転んだのか膝からは血が出ていた。
「恋なんか、ろくなことあらへん。
 でも、それでも恋してしまうんが、人間や。
 歌蓮は、人間かぁ?それともカラクリかぁ?」
青蓮姐さんの目は腫れていて、ついさっきまで泣いていたようだ。
「姐さん、どないしはりましたん?
 こないお酒、浴びるほど呑んでぇ…」
「歌蓮ー…あたしなぁ、あたしなぁ、忍ばれへんくなってん…
 大切でなぁ、大切でなぁ…かなんねん…
 もう頭ん中あの人のことばかりでなぁ、これを恋っていうんやなぁ…」
膝の傷から小石を取り除いて、消毒液で浸したガーゼを当てる。
きっとしみて痛い筈なのに、青蓮姐さんの瞳は何も映していなかった。
「あんなに解ってたのになぁ、あんなに知ってたのになぁ、
 偉そうにあんたにまで説明してたのになぁ、
 あたしが駄目やったんやわぁ…」
包帯を綺麗に巻いて手当てを終えても、膝からは白く霞んだ赤が見えた。
「あたし、なんか悪いことしたんやろか…
 あの人大事にすることが、そんなにいけんことやろか…」
私は答えを知らず、何も言うことが出来ない。
青蓮姐さんは気に留めず、ずっと独り虚空に話し続ける。
「やっぱりうまく走れなんだわ…裸足で走ってしまえばよかったんや…
 そうすればあの人に追いついたんやろか、
 置いていかれずに済んだんやろか…」
私は知らない感情を、知ってはいけない感情を、
青蓮姐さんは知ってしまったのか。
越えてはならない一線が、目の前にあるのだろう。

真っ黒い大きな青蓮姐さんの目から一筋、涙が伝う。
残っていた簪が揺れる。ちりん、と鈴が鳴いた。
黄色い靄
どうすればうまく生きられるんだろう。
どうすればうまくバランスが取れるんだろう。
難しすぎて、如何しようもなくなる。
誰も傍に居なくて、怖くなって周りを見渡す。
あの人の手を捜して、濃い黄色い靄の中、走っていく。
答えなんか用意されていないのに、
走っていく方法しか、私には与えられていない。
転んで、足を切って、血が流れる。
それでも黄色は、赤く染まってくれない。
子供の持っているであろうボールが、跳ねる音がした。
あの人は遠くで、誰かと笑っている。
その人は、私を全く知らない。けれど知っている。
その人を、私は全く知らない。けれど知っている。
流れている血も、あの人のところへは届かないだろう。

黄色い靄は段々と濃さを増し、
やがて自分の手も見えなくなってしまう。
私が、私自身を見えなくなった頃、
大人の女の人の「くすっ」という声が聞こえた。
花弁の血
地面一杯に広がった、美しい桜色の花弁を
彼女は楽しそうに眺めて、駆け回った。
靴は両方脱いでしまって、手に握ってくるくる回る。
彼女の周りの花弁も、小さく舞い上がって、落ちた。

二人は幸せだったけれど、それは限られた事を知っていた。
何故?なんて聞くのは野暮な話。
人には語らぬ方が好い事が多いって、あなたも知っている筈。

紺灰の夜空に憧れて、彼女はその色のインクを作った。
一番大好きな月夜の名前をつけて、何よりも大切に文字を綴った。
彼の煙草の煙が、夜へ向かって昇っていくのも、彼女はとても気に入っていた。


最近のことだった。世の中が浮き足立っている時期のこと。
街は飾り立てられ、彼女達もそれなりに浮き足立っていたのだろう。
そんな二人の遠い先に、橙色に近い黄色い霞が見える。
その霞の下には、二人分の足。
その足は此方を向いていた。
セミロングの彼女は、小さい子の手を引いて去っていく。
隣に居る彼は、それに気づいて居ない。
人工の電飾の中で、黄色い彼女だけが人ではなかった様に思えた。
彼女はふと、源氏物語の一説を、思い出した。


「私達って『共犯なのね』」
「あぁ」
そう軽々しく言った二人は、幸せに満ちていて気がつかなかった。
背負うことになる重さも、そしてその長さも。
彼女は軽く空気を舞った。
それはまるで踊り子の様だった。
でも、彼女が憧れた姿であって、彼女はただの少女だった。


彼女は桜色の花弁の上を駆け回り続ける。
やわらかい花弁の上なのに、だんだんと血の痕が広がっていく。
その量は尋常じゃない量になって、このままだと命に関わってしまうだろう。
それでも彼女は嬉しそうに駆けるのをやめない。
そして彼も、それを止めない。

だって、私達は『共犯』だから。
誰にもわからなくていいの。
誰も知らなくていいの。
私達だけが理解することが、私達だけが知ることが、『共犯』に繋がるのだから。

彼女は花弁の血の中、舞う。
それはそれは幸せそうに。
二度と味わえない贅沢と共に、世界を舞う。
今年も終わります
今年は、大阪帰ってきたり
東日本大震災にあったり
日本カメラでの連載が始まったり
大変ばたばたしましたが

来年はもう少し安定することを願って
少しずつ精進しようと思っております。

来年も、宜しくお願いいたします。

皆様も、良いお年をお過ごし下さい。
<月の涙>のインク
月の涙 ー あなたへの手紙

昔々、伝わる言い伝えが在りました。
「<月の涙>のインクで書く手紙は、必ず想いが届く」
どこからその言い伝えが生まれたのか、誰も知りませんでしたが、
その言い伝えで恋が叶った人は、その村にはたくさん居ました。
<月の涙>の作る手順は決して難しいものではありません。
でも、 守らなくてはいけない決まり事がいくつか在りました。

満月の夜に降る雨粒の中から、
大きい雨粒だけを透明な硝子の小瓶に閉じ込めること。
そして、その小瓶を次の満月まで月光に当て続けること。

すると、ただ水だった小瓶の中身が、月の光を吸い込んで
淡い淡い生成りの色に染まって、<月の涙>のインクになるのです。
ただし、雲が出ている満月の雨ではいけません。
狐の嫁入りのような、
雲一つない紺藍の空に浮かぶ満月なければいけません。
雲のない驟雨の夜の雨でしか、
インクを作ることは出来なかったのです。

とある小さな村がありました。
村は決して大きくはありませんでしたが、
市場もある、住むには丁度いい歴史のある村でした。
そこに、一人の少女が居ります。
少女は独りで住んでおりました。
でも特に不自由などありません。
自分独りの家事ぐらい、それなりに出来ました。
少女には独り、密かに気になっている想い人が居ました。
その想い人は、彼女よりもずっと年上の人で、
話をしたことがないわけではありませんでしたが、
全く相手にされていないようでした。
ずっと秘めていた、大切な想い。
恋しているという感情も、愛しているという言葉も、
まだ知らなかった彼女に取って、それはとても苦しいものでした。
想い人に似合う人は、周りにたくさん居ました。
どんなに背伸びしたって、かないっこありません。
「どうしたら、いいんだろう…」
どんなに考えても答えは出ません。
少女は出ない答えに悩んで、毎晩月を見上げていました。

いつものように月を見上げていたときでした。
ふと、古くからの言い伝えを思い出しました。
『<月の涙>のインクで書いた手紙を読んでもらえば、想いが叶う』
『想いが叶う』という言葉の意味が、まだよく解らない少女でしたが、
もう他に方法もなく、困り果てていたので試してみることにしました。

<月の涙>のインクを作ると決めて、いくつめかの満月の夜。
珍しく空が小さな雲一つなく晴れ渡っているのに、
ぽつぽつと地面を濡らし始めておりました。
満月の驟雨に降るたくさんの雨粒が、
世界中のコントラストを濃くして行きます。
まるで、絵の具で世界を塗りつぶしていく中で、
激しい雨に濡れている少女が一人、佇んでおりました。
髪も服も濡れそぼり、視線は遠くの月を眺めていました。
ふと、何かを思い出したのか、彼女は走り出します。
「嘘でもいいの、あの言い伝えでも、可能性があるのなら…!」
彼女は急いで自分のいえへ戻ると、硝子の小瓶を手に取ります。
そして少女は、その雫を小さな硝子瓶に受け入れて鋼の蓋を閉めました。
その小瓶を満月の夜まで月光に当て続けるために
少女の部屋にある、一番の高い窓際に置いておきました。

ある日、少女は身体には大きすぎるほどの花瓶を抱えて、
水汲み場へ向かっていました。
少女が花瓶に水を組んでいると、
少女の耳にある噂話が届いてきました。
『どうやら、あいつが結婚するようだ』
『あらそれはおめでたい、皆でお祝いしなくては』
『いつ結婚するんだい?』
『今度の満月の次の日らしいわよ。私たちもお祝いの準備をしなくっちゃ』
その噂を聞いた少女は、持っていた花瓶を落としてしまいました。

―――想い人が、他の人のものになってしまう。

花瓶が割れる音と一緒に、
今までずっと秘めていた想いが、弾ける音が聞こえました。
彼女の、一番の深い、一番大切な想い。
落とした花瓶にも構わず、少女は走って帰って行きました。

少女の想い人は、手が届かない人でした。
いつも、少し後ろから眺める事だけを許されていました。
おそらく想い人は少女の事など気にも留めていないでしょう。
それでも、少女はその人が好きで仕方なかったのです。
見返りなど必要ありませんでした。
けれど、自分の想いを知らないまま、他の人のものになってしまうのは
少女には耐えられないことでした。
たくさんたくさん考えて、少女は言い伝えを実行してみることにしました。

陽が暮れ切って、空が紺碧に染まった頃。
空は大きくまぁるい生成りの満月が支配していました。
彼女は小瓶を置いていた高い窓へ駆け上がって行きます。
小瓶は一ミリも動かず、置いたままの状態で薄暗く光っていました。
街灯もなく、今日は満月の夜です。
少女は恐る恐る小瓶を手に取ります。
すると、ただの雨だったはずの水が、
ほんの少しだけ淡い淡い生成りの色を纏った水に変わっていました。
そのインクは、月の色を吸った特別なインクで
どんな紙に書いても、決して読む事は出来ませんでした。
過去に、何人もの人が試し書きしては、
「嘘だったのか」と落胆して捨ててしまっていたものでした。
でも、<月の涙>のインクで書いた文字が、
見える時があると、言い伝えでは言われていました。
読むために必要なものは、愛する人への想いを込めた
<月の涙>で書いた手紙と、満月の月光。
白紙のように見えるその手紙を、満月の下で何も説明せずに相手に渡し、
もし、捨てられずに読んでもらうことが出来たのなら、
見えなかった筈の文字が紺碧の夜のインクとなって
浮かび上がって来るのでした。
決して他の人には読めないその手紙を、
愛している相手が読むことができたなら、
想いが伝えられると言われているのでした。

そして、過去に思いを伝えられた少女と想い人は、
不思議なインクの糸に導かれて、ずっと一緒に居られたのでした。

少女は一生懸命書きました。
読み書きを習ったことのない少女の字は、決して上手ではなかったけれど
それでも想い続けていた言葉でいっぱいでした。
<月の涙>のインクで書きあがった手紙を、
丁寧に二つ折りにして薄い"あお"の封筒にしまいます。
「読んでくれるのかな…それとも白紙だって、捨てられてしまうのかな…」
不安で仕方ない少女でしたが、もうここまで来ては勇気を出すしかありません。
満月が照らす道を走って、少女は想い人の下へ走っていきました。

真夜中近い時間の急になったノック音に驚いた男の人は、
おそるおそる扉を開けます。
そこには、近所の少女が凛々しい表情をして立っていました。
ドアを開けた人は、少女の想い人でした。
「やぁ、こんな夜更けに、どうしたんだい?」
少女は、すぅ、と息を吸うと、手紙を差し出して言いました。
「この、この手紙、読んで、もらえませんか?
 ここ、月の見える、この場所で」
想い人は完全に不思議そうな顔をしていましたが、
"あお"の封筒を受け取って、広げてみました。
その中には二枚の便箋が入っていました。
そして…

そこに、紺藍の拙い文字が、浮かび上がっていました。
想い人は時間をかけて読みます。
決して長い文章ではありませんが、何度も繰り返し、その手紙を読みました。
少女は泣きそうな顔をしながら、ただ必死に立つ事に集中します。
気を抜いてしまうと、しゃがみこんでしまいそうなくらい、不安だったからです。

満月が少し傾くぐらいの時間が過ぎて、想い人はようやく手紙を封筒にしまいました。
そして、少女の視線までしゃがんで、にっこり笑いました。
「ありがとう。そんなに、大切に、想ってくれてたんだね」
少女は何を言ったらいいのか解らなくて、必死に何度も頷きました。
想い人はその頭をなでて、優しく笑います。
「本当に、ありがとう。僕を、そんなふうに想ってくれて」
少女は困ったように笑います。それにつられて、想い人も笑いました。
それから月が沈むまで、初めて二人きりで話し込みました。
他愛もない話も、たくさん。
<月の涙>がくれた、少女にとっても、想い人にとっても、幸せな時間でした。


<月の涙>は、きっと太陽に恋をして叶わなかった
月が流した涙が驟雨となってインクになったのだろうと、
人々は考えたのでした。
日本カメラ連載開始しました!
明日発売(一部早いところだと今日)の日本カメラ1月号から連載が始まりました!

名前は仮呼(カコ)名で出ております。
しかも何故か赤髪で。笑

銀塩の写真機に関して書く、1ページのコーナーです。
全国誌ですので、書店で見かけましたら宜しくお願いいたします!
主題探し
今日の主題は?
  サファイア、ラピスラズリ、ブルートパーズの三つよ
ずいぶん石ばっかりだね…
  だぁって、そんな気分だったんだもの
ブルートパーズはペリカン?
  で、ラピスラズリはイ・カストーニ
あれ?じゃぁサファイアは?
  サファイアだけは、ペンでもインクでも無かったの
ふぅん…なるほどね
  …本当に、あなたのそういうところ、可愛くないわ
知ってる。知ってて言ってるからいいじゃない
  ますます可愛くない、いつからそうなったのかしら
昔からだよ、残念ながら
  昔はこんなことなかったのに、寂しいわ